交流の様子
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交流の歴史
1979年,オランダ日本人学校開校。産声を上げたばかりの本校はすべてが一からのスタートで,子ども達も先生達も試行錯誤の連続であった。
めまぐるしい毎日の中で,日本人学校の特色を生かし,現地の学校と交流をすることは,学校としての夢であった。しかし,そのころ学校周辺には交流をするのに適格な学校がなかなか見つからなかった。見つかったとしても思うようにうまくはいかないことが多かった。日本人学校に入った子ども達は日本人同士で遊ぶことに慣れ,オランダ人とつきあうことが減り,それが交流の場面でのコミニュケーションがうまく進まない事の原因となった。また交流をすることはお互い経済的に負担がかかり,相手から断られることも多かった。こうしたことから,様々な学校と交流を試み,うまくいったように見えても2年続けて交流したことはなく,どれもその年限りで終わってしまっていた。それでも交流への思いを断ち切ることはできず,毎年交流相手校を探すのをあきらめることは決してなかった。
1985年,一人の少年が本校に転校してきた。大堤防のさらに向こうにあるスネークという町からである。当初は毎日大堤防を渡り片道2時間近くかけて通っていた。しばらくしてアムステルダムの市内のアパートに移り,通うようになった。その子とそのお母さんを通じて,スネークの町のことをいろいろと知ることができた。美しいスネークの町の様子,そしてそこに住む人々の暖かい人柄・・。そのうち,そのお母さんからのお誘いで,本校の教員がスネークの町のフェネポール校に出かけて,教員同士で会うことが実現した。フェネポール校は少年が本校転入前の学校である。このフェネポール校こそ今のアウトファールト校の前身である。
お互いの教員同士は意気投合し,ぜひ子ども同士の交流もということになった。しかし問題が生じた。こちらからはバスを出してフェネポール校へ行くことはできても,フェネポール校はスクールバスが無く,子どもたちは来ることができない。そこでバスはこちらが手配し来校してもらうということで決着した。この交流は絶対に成功させたいという思いの現れであった。
これをきっかけに何度か交流が進んだ。
今まで1年きりで終わってしまっていた交流と違ったのは,お互いの交流に対する思いの強さ,それをつないでくれた一人の少年とその家族,そして日本人学校を笑顔で迎えてくれたスネークの人々の温かさであった。その後,スネークとアムステルダムとではとても距離があるので、宿泊を伴った交流にしたらどうかということになった。スネーク近くのユースホステル宿泊を利用していたが、「それならフェネポール校の保護者の家に泊まればいい,何もわざわざユースに泊まることはない。」と温かく学校と各家庭が迎えてくれるようになっていった。これに感激した本校の各家庭は,同じようにフェネポール校の子ども達を自宅に迎え入れた。
こうして今の交流のかたちの原型が築き上げられた。その後フェネポール校が学校統合でアウトファールト校と名を変え,学校の規模は変わったが,その年々でお互いの学校は工夫を凝らし,交流は続いていった。そしてそれは現在も引き継がれ,おそらくこれからも続いて行くであろう。
交流の歴史は日本人学校の歴史そのものでもある。